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某君說了,龍馬的功績還真是每一項都無法推敲,龍馬飯好可憐.......
聽到時不以為意,不過昨天查了日文的wiki,發現註釋很歡樂地有上百個XDD~
因為是全民的偶像,所以想對他的真實面貌進行考察的人也特別多吧:)~~


劍豪?
之前搞錯了.....所謂幕末的江戶三大道場是:

玄武館 北辰一刀流。1822年(文政5年)秋、千葉周作が日本橋品川町に開設。
練兵館 神道無念流。1826年(文政9年)、初代斎藤弥九郎が九段坂下の俎橋付近に開設。
士学館 鏡新明智流。桃井春蔵が京橋蜊河岸に開設。

然後龍馬原來只是到小千葉道場(千葉周作的弟弟定吉開的道場)去修行.....算不上是真正在三大道場之一修行....

北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、実際には「北辰一刀流長刀兵法・目録」を与えられた物であり、一般にいう剣術では無く、正しくは薙刀兵法であり、免許でもなければ皆伝でもなく、北辰一刀流としては一番低い「初目録」であった。ただ千葉道場で塾頭を勤めたことや同世代の人物の証言に「免許皆伝を伝授された」という証言も残るため、免許皆伝状は単に現存していないものと思われる(龍馬の遺品は災害や盗難等で幾つか損失している)。ちなみに、「北辰一刀流長刀兵法・目録」が薙刀の目録であることについては、松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』454号、1986年)、土居晴夫「北辰一刀流とその免許皆伝」(『坂本龍馬事典』新人物往来社、1988年)が詳しい。

然後取得的也只是長刀兵法目錄,而不是劍術的免許皆傳....雖然有說法是說龍馬只是劍術的免許皆傳在死後遺失而已,但...
B: 可 也許是人家沒有保存下來呀....
某君: 噗 那高杉說不定也是練兵館的皆傳呢,只是沒有保存下來而已
B: XD
(純粹玩笑話....懇請龍馬迷別生氣....)


薩長同盟:
なお薩長同盟については龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり(青山忠正など)、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。その後、青山忠正を皮切りに、芳即正・三宅紹宣・宮地正人・高橋秀直・佐々木克などの研究者を中心に薩長同盟についての議論が盛んである。薩長同盟研究の動向については、桐野作人「同盟の実相と龍馬の果たした役割とは?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)が詳しくまとめている。

福岡藩早川養敬評論:「薩長和解是由坂本龍馬所促成的並非過言,但我認為内部實際的功勞是中岡慎太郎多些。華麗的一瞬是屬於坂本的,但像中岡這樣煞費辛勞的事務並不是」。
個人看法也是中岡的功勞多些,不過人各有所長,缺少誰可能都無法促成同盟吧~


世界的海援隊?
展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。この職制案を見た西郷がその名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていることを知り、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本竜馬』が出典の創作であることが分かっている

有尾崎三良的史料佐證,龍馬的名字也列在參議候補者中,所以"想組世界的海援隊"雖然是很有名的逸話,其實也只是後人的創作而已......


可印證龍馬也能打仗的英姿XD:
6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日にユニオン号に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した
『維新土佐勤王史』などの記述をもとに龍馬本人は実戦には参加せずに陸上で観戦していたとする説もある。『坂本龍馬歴史大事典』p110-117、『坂本龍馬と海援隊』p91

四境戰爭(第二次幕長戰爭)時,龍馬和龜山社中的成員也去支援長州了,NHK請千萬別錯過這段,這可是印證龍馬也有打仗的軍事才能的一大素材呀XD~;不過也有看法指出,龍馬本人不知為何沒參戰(龜山社中的其他人都去了),一個人跑到山上去觀戰、畫畫=w=。



從武士刀到萬國公法?
当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友の檜垣清治が龍馬と再会した時、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した檜垣は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、檜垣が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した檜垣はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、檜垣が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや檜垣はついていけなかったという。龍馬の性格を鮮やかに描写している逸話として有名だが、当事者の檜垣清治は文久2年(1862年)に人を殺めて投獄され、維新後に赦免されるまで獄中にあり、龍馬と再会することはありえず、大正3年(1914年)に著された千頭清臣『坂本龍馬』における創作である。[112]

也是很有名的逸話,然而當事人檜垣清治於文久2年(1862年)因殺人而入獄,到維新後被赦免為止,都一直在獄中度過,和龍馬再會是不可能的事,所以也是後人創作.....


船中八策?

先不說它的影響力,居然也沒有實際物件...船中八策連存在不存在都還在討論中...

ただし、「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が作成したのか疑問視している研究者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、史料的根拠は見当たらないのである。詳しくは、青山忠正『明治維新の言語と史料』(清文堂出版、2006年)・松浦玲「『万機公論ニ決スヘシ』は維新後に実現されたか?」(『新・歴史群像シリーズ(4) 維新創世 坂本龍馬』学習研究社、2006年)を参照。

明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。そこで、総裁局顧問の木戸孝允が、天皇が天神地祗(てんじんちぎ。分かり易く言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いている状態で共に誓いかつ全員が署名するという形式を提案し、採用されることとなった。 相似www

 

 


結論,有實際物件證明的其實只有桂很擔心神經質而寫了要求龍馬簽字的同盟條約ww,所以龍馬要感謝桂寫給他這封信(三段論法得證ww~)。

 

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